寺歴

寺 歴

沿 革

浄土宗大松寺(三世住職 北見賢明)は、明治四十年に開山、林玄松上人が地域有志と共に説教所として草庵を建立したのが始まり。

以来、数回にわたり本堂庫裡の建立がなされる。

平成19年12月で開基100年を迎え、その記念事業として、南区藤野2条11丁目に新たに境内地1292坪を購入し、
本堂・客殿・庫裡・納骨堂、「総鉄筋コンクリート二階建、建築総面積約600坪」を建立した。

現在、簾舞の寺は本寺として護持し、地域住民並びに檀信徒と共に広く利用できる新たな念仏道場、ペット霊園などを思考中である。


寺 歴

明治四十年夏に、簾舞地区住民の懇請により、当山本寺の札幌新善光寺第二世、林玄松上人「大松寺開山上人」が浄土宗宗務庁へ説教所設立を出願、同年十二月十四日付けで認可。
翌年早々地域住民有志、黒岩卯太郎氏「大松寺境内境内九〇〇坪寄贈」、五十嵐虎治氏、阿部勇吉氏、他多数の協力により二〇坪の草庵が建立、浄土宗簾舞説教所としての信仰の道場が出来た。
説教所初代主任に吉村戒光師「札幌長専寺住職」が就任し、信者の布教活動に専念されたことが伝えられている。


大正元年には、小坂了観師が二代主任となり、早々翌年の大正二年七月に十八坪の堂宇を改築され、大正7年小野関松寛師が第三代主任に就任し、大正十年七月には、二十三坪の庫裡を増築し、二代、三代の主任が中心となり信者と地域住民の協力でここに小さいながら本堂庫裡が完成された。
大正十二年には、中村教孝上人が四代主任となり。昭和十二年迄の十四年間に亙り信者の教化と寺門護持にあたり、特に信者の信頼厚く、又上人の妻ツネさんは信者の方や地域の女性に和裁を教えるなど共に多くの方々に親しまれたことが伝えられている。ただ、五代〜七代の主任は不明である。
が八代主任となる。上人と寺庭婦人は、戦中戦後の社会不安の中で寺門の維持にあたる。
昭和26年には、浄土宗宗務庁に大松寺の寺号申請、同年認証を受け北海道庁に認可され寺号公称する。昭和36年5月、総代・世話人と協議し5間四方の本堂と15坪の庫裡を改築し、同年12月落慶法要を厳修。


昭和49年に法嗣賢明修行を終えて帰山、昭和51年秋、手狭と老朽著しい本堂と納骨堂、庫裡の建立を計画、数度の役員会開催その計画半ばの昭和52年8月30日、総代黒岩卯三郎氏(黒岩卯太郎氏子息)逝去す。同年9月末に地鎮式、その際、檀信徒有志が白石数十個に写経し、設計図面、当日の新聞、記念になる品を本堂本尊下に埋蔵。次の建立の時に目に触れることであろう。

昭和十五年に北見賢勝上人が八代主任となる。上人と寺庭婦人は、戦中戦後の社会不安の中で寺門の維持にあたる。
昭和二十六年には、浄土宗宗務庁に大松寺の寺号申請、同年認証を受け北海道庁に認可され寺号公称する。昭和三十六年五月、総代・世話人と協議し五間四方の本堂と十五坪の庫裡を改築し、同年十二月落慶法要を厳修。


昭和四十九年に法嗣賢明修行を終えて帰山、昭和五十一年秋、手狭と老朽著しい本堂と納骨堂、庫裡の建立を計画、数度の役員会開催その計画半ばの昭和五十二年八月三十日、総代黒岩卯三郎氏(黒岩卯太郎氏子息)逝去す。同年九月末に地鎮式、その際、檀信徒有志が白石数十個に写経し、設計図面、当日の新聞、記念になる品を本堂本尊下に埋蔵。 


平成十九年十二月で開基一〇〇年を迎え、その記念事業として、南区藤野二条十一丁目に新たに境内地1292坪を購入し、本堂・客殿・庫裡・納骨堂、「総鉄筋コンクリート二階建、建築総面積約600坪」を建立した。現在、簾舞の寺は本寺として護持している。
平成二十九年六月五日、北見賢明上人逝去す。北見祥隆上人が代表役員就任。